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中国歴史の「中華思想」

中国そのものを本格的に知るには、歴史を紐解く必要がある。

中国は、4000年の歴史を有するという。確かに世界8大文明の一つとして、古くから栄えていたことは事実である。その歴史の中で、注目すべき思想がある。

その思想とは、「中華思想」、中国語では「華夷秩序」、または中国中心主義とも呼ばれている。

中華思想とは、中華の天子が天下(世界)の中心であり、その文化、思想が神聖なものであると自負する考え方で、古くから持った自民族中心主義の思想です。

中華とは『華(文明)の中』、『文明圏』を意味する儒教的価値観から発展した選民思想。自らを華(文明)と美称するにあたって、野蛮(夷)が存在しなければならない。華の周りに野蛮国に囲まれてこそ、華であるとした。

当時の中国は、日本より格段に高い文化を有していた。そして、中華思想という自分たち(中国人)の住む場所が世界の中心であり、周辺国は文明化していない夷狄(野蛮人)であると、卑しむ考えを持っていた。別名「華夷思想」ともいう。

この概念は、『前漢』の『武帝』劉徹(紀元前159~前87年)の野心に起因している。武帝の時代に正式な国教になった儒教は、天命によって天から選ばれた天子(皇帝または王)を頂点とした、徹底した序列による秩序を唱えた。

前漢時代に登場した統治イデオロギーに「生民論」と「承天論」の二つがある。「生民論」は「天は民を生んだが、民は自ら収めることができない」とする。「天承論」は「そうであるかが故に、天の命に応じた徳の高い皇帝・天子が世を治め、秩序を実現すべきである」とする。

そのため中国では、『易姓革命』と称され、度々天子が入れ代わっている。『易姓革命』とは、「統治者の姓が変わる(易)のは、天命があらたまった(革)ものだとの意味」中国古来の政治思想で、徳のあるものが徳のない君主を倒し、新しい王朝を立てることを言う。

朝鮮は、この中華思想や儒教をそのまま受け入れ、自分たちも憧れの「中華」になれたと思い込んで、「小中華」と自称し、長らく中華王朝の属国であり続ける。

一方、日本は中国より文化を導入するが、中国の属国にはならず、独立国としての立場を取り続ける。その実例として、聖徳太子が遣隋使として小野妹子を派遣した時、「対等」をつらぬきます。

小野妹子に持たせた『国書』の書き出しには、「日出づる処の天子(日本の天皇)、書を日没する処の天子(中国の皇帝)に致す、恙なきや・・・」と書かれています。こうした毅然とした態度が、今日の日本という国で、あり続けてきた証です。

以下、中華思想の変遷に限定して、記述を進めます。

仏教を国教とした鮮卑族『隋』(581~618年)、それに続く『唐』(618~907年)の時代には「中華思想を超え中華と夷狄も平等」という「夷華同一」という思想も誕生。旧来の漢民族の概念は消滅し、儒教(中華)は衰退する。

再び『中華』が叫ばれ出したのは、漢民族の王朝『宋』時代(960~1276年)に入ってからである。だが、宋は新興勢力の契丹族の『遼』に苦しめられ、その後さらに満州人(女真族)にも苦しめられ、宋の人々は新しい儒教である朱子学(宋学)を創り出す。

その後、モンゴル民族が『元』(1271~1368年)を創設。異民族による統治の時代が続く。

1616年には、女直属のヌルハチが帝位(太祖)につき、国号を後金と称す。その子太宗が国号を『清』と改め、孫の世祖の時に中国に入り北京を都とした。

こうした異民族による中国支配に『中華思想』は浮沈する。

清朝も紆余曲折を経て、西洋列強の侵入や革命思想の流入などにより弱体化していく。その結果、漢民族のナショナリズムとしての中華思想はむしろ増大し、辛亥革命に繋がる。そして1912年、清朝は倒れ中華民国が建国された。